[ 異郷 no.16, 2003.6.7 発行より]

  セミョーン・スミルニーツキイと息子アレクセイの家出事件

 本紙第12号で、小樽高等商業学校のロシア語教師だったセミョーン・スミルニーツキイと息子たちについて述べたことがある。スミルニーツキイは、次男であるアレクセイにソ連国籍を取得させて帰国させたのだが、その行為については、彼なりにソ連という国を信用していたからだろうとの推測を述べておいた。外事警察の資料(昭和19年5月「外事月報」)に、小樽にソ連領事館が設置されると、他に先んじて近づいたと報告されていたことなども、そう考える材料のひとつであった。

ところが、最近見つけた新聞記事を読んで、この推測が必ずしもあたっていなかったのではないかと考えるに至ったので、ここでその経緯を述べておきたい。記事が掲載されたのは1927年4月25日付けの「函館新聞」である。

「十四才のロシア少年/母恋しさから/貯金を引出して父に無断で家出/大阪まで歩いていく」という見出しに、以下のような文章が続いている。

「御願ひがございます」とはつきりした日本語で廿二日の午後二時過ぎ青森警察署を訪れた露西亜少年があつた。黒いマントにスコツチの詰襟といふ旅装に係員は何事かとその訳を尋ねると、少年は綺麗に分けられた頭髪に波打たせながらでも微笑して流暢な日本語で語り出したのを聞くと、父は現在小樽高商の露語教授でスミルニツキイと云ふ帝政時代の陸軍大佐である。母は浦塩自分は父の許にあつて小樽稲穂小学校六年に通つてゐるのであるが、母恋しさがつひに自分の貯金七円を下して、父には無断で十二時半の連絡船で青森に着いたがあとには僅か一円足らずの金、十四の少年としてはるばるこれから母を尋ねて行くにはそしてあと父を残してさびしく心配してゐる父を思ふと、又小樽が恋しくなつて青警に訪ねるに至つたものであるが、それでも少年は元気に大阪まで歩いて大阪から浦塩は何ともありませんと語つてゐるが、然し母居らぬ日本は淋しいと涙ぐんでゐる。少年の父はペグブラートアレクサンドル(地名か?―引用者)に去る年の過激派の戦ひに敗れてついに日本に亡命したものであると(旧漢字は新漢字に改め、適宜句読点を入れた)。

アレクセイには、ウラジオストクへ行こうと、父に無断で家出をした過去があったのである。スミルニーツキイの妻が夫と別れて帰国した理由がどういうものだったのかはわからない。しかし、幼いアレクセイにとって、母がどれだけ恋しかったのかは想像ができる。母恋しさには理由はない。スミルニーツキイにもそれが痛いほどよくわかったのだろう。

私はこの家出事件によって、スミルニーツキイがいずれ適当な時機を見計らって、息子を母親の許へ帰そうと決心したのではないかと確信した。ソ連という国家が信用できるものかどうかなど、逆にこの時の彼にはあえて考えたくもないことだったと思うのである。

すでに12号でも述べたが、家出事件から1年後の1928年4月、アレクセイはようやくウラジオストクの母親の許に帰った。しかし運命とは残酷なもので、1931年の春、彼は日本のスパイという容疑で処刑された。帰国後わずかに3年の命であった。

 スミルニーツキイには息子を失った悲しみと、あの時帰さなければ、という大きな悔恨の念が去来したことであろう。できるものならば、スミルニーツキイ夫妻の別離の理由やアレクセイの処刑にまつわる事実を知りたいものである。

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